鎌倉幕府の歴史を研究する場合、
『吾妻鏡』に依る部分が多いのですが、
この書の信憑性はどの程度なのでしょう。
一般的に源氏に厳しく北条家に甘いので、
北条家により編纂されたものとされ、
源義経が兄である頼朝に嘆願し、
悲劇の英雄として祭り上げられた部分は
捏造ではなかったかと言われてはいます。
これだけだと北条家に有利な記述のみで
構成されていると考えそうになりますが、
写本の内で最も有名な「北条本」の目録は、
ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと
現在では見られているようです。
その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、
室町時代には揃いの完本の形で残っておらず、
断片的な抄出本や数年分の零本であったのを
複数の者が別々に収集し纏めたものが、
現在知られる複数の写本と推定されています。
吾妻鏡の編纂が南北朝時代になされたなら、
足利氏による改竄が懸念されますね。
鎌倉末期の記述に操作を入れる事により
室町幕府にとって都合の悪い情報を隠し、
都合の良い捏造が行われてたと仮定すると、
霜月騒動に起因する大覚寺統と持明院統の
天皇家対立も事実であったか怪しくなります。
後醍醐天皇は北条氏による独裁がなされた
鎌倉幕府を打倒して朝廷を樹立したのでなく、
信仰的に同系統の鎌倉幕府の延長線上に樹立した
鎌倉幕府と同系統の王朝であったと思っています。
この仮説の根拠は複数存在していますが、
やはり文献による推理よりも強いものが
三遠の南朝の痕跡であると思っています。