吉田神社と吉田兼好

京都の吉田神社に神龍社が存在し、
吉田神道の創始者とされている
吉田兼俱(かねとも)を祀ると
伝えられて来ています。

しかし『雍州府志』を読むと、
この伝承には疑問が出ます。

巻四、吉田山神龍院の項にこうあり、

相伝、兼好法師、暫在此院

同じく吉田山神恩院の項には、

或謂、兼好法師所寓者、此院而非神龍院也

と神龍院の記述が存在していますが、
この記述には問題があります。

神龍院は吉田神社付近にあった臨済宗寺院で、
吉田兼倶の子の九江妙亀が創建したとされ、
兼俱は江戸時代の人物とされているので、
兼好の時代に存在するのは何故でしょう。

臨済宗は南朝の密教寺院であったものが
改宗させられたケースが多く見られ、
吉田兼好から吉田神道への流れの中に、
抹消したい歴史があったのでしょうか。

廃寺となったものとして扱われており、
吉田神道創始者の吉田兼俱を祀る
神龍社との関係が気になりますね。

吉田神道は南朝と共に衰退した
伊勢神道を室町末期に復興させ、
伊勢の神宮を越えた神道界の
ヒエラルキーのトップに君臨し、
これが吉田兼俱の功績とされます。

吉田兼俱は系譜の捏造を行い、
吉田兼好を吉田家の系譜に取り込み、
権威付けに利用したとされますが、
兼好は後醍醐天皇と関わりがあり、
先住民族祭祀との繋がりが深いです。

吉田神道は後醍醐天皇により
復興がなされた神道に通じ、
吉田兼好の吉田神道の活動が
後に抹消された可能性も
ゼロとは言えないでしょう。

後醍醐天皇が鬼道に通じ、
鬼道で八画が重視された事から、
吉田神社の大元宮に繋がるなら、
歴史的快挙ではありますね。

この吉田神社は節分の豆まきと
関係している事でも有名ですが、
掘り下げると面白そうですよ。

南北朝対立の危険な時期にあり、
様々な書物が焼かれた時代を
追及するのは非常に困難ですが、
兼好に大きな謎が存在する事は
ほぼ間違い無い事でしょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする