吉田神道と吉田兼好

室町末期に吉田兼俱が吉田神道を創出し、
伊勢の神宮を凌ぐ神道最高峰の地位を
確保してきた事は有名な話ですが、
吉田兼好が吉田神道(唯一宗源神道)と
関係するとする伝承が残されています。

兼好物語巻之二
族姓事
むかし兼好法師といふ人ありけり。
もとは藤原の鎌足の大臣に九世の後、
卜部の兼延、唯一宗源の神道の
ほまれをあらはし、
時の帝、一条の院より
「兼」といふ文字を下し給りしかば、
さてなん「兼」の文字をもて、
かの家の代々の名にかたどれるといへり。
此兼延に又九世の末、
兼頭の三郎にあたれる子にて、
弘安五とせにぞ生れ出ける。

卅四 吉田再住事
兼好法師、横川の住居もとし月をへぬれば
同じわたりに猶久しく心をとめ侍らんも、
とよからずおもえけるまゝに、
又二たびよし田のかへりて、
神楽岡のほとりに庵を結びて、住けり。

神楽岡は吉田神社の建てられた場所で、
鎌倉時代以降に卜部家が神職を相伝し、
南北朝を経て室町末期に吉田神道が
創出された事を考慮に入れると、
南北朝の動乱期の吉田神社の動向が
どうなっていたかが気になります。

とは言っても史料を探しても見つからず、
意図的に隠された可能性があるなら、
ここに関与した吉田兼好の伝承にも、
隠蔽された部分が存在するのでしょう。

兼好が『徒然草』で有名な好色の密教僧で、
神道とは関係ない世捨て人とする評価は、
どこまでが真実だったのでしょうか。

南朝と通じた伊勢神道が室町幕府から
排除されて衰退していますが、
後醍醐天皇と通じた先住民族祭祀の
唯一宗源神道も優遇されなかったでしょう。

彼の伝承には南北朝対立の時代背景が
多分に影響しているのであれば、
兼好は神道の行法で後醍醐天皇に
奉仕していた可能性もありますね。

後醍醐天皇と言うと怪しい行法をした、
目的のためには手段を択ばない、
打倒されて当然の危険人物扱いですが、
神道界にも優れた功績を残していた
賢王だったのかも知れません。

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