現代でこそ吉田兼好は「徒然なるままに」の
『徒然草』でしか知られてはいませんが、
江戸時代には詳細に渡る兼好像が認知され、
単なる隠居坊主の歌人ではありませんでした。
若い頃に宮中の警護で怪鳥を射落とし、
出家後に十七歳の娘の交際が発覚して
諸国の放浪を余儀なくされたり、
晚年は伊賀国の山村に隠棲し、
臨終に朝廷から御典医が遣われた等、
非常に濃い伝承が広まっていました。
兼好と同時代の人物による記録が
江戸時代に広まっていたのに、
近代になり偽作であるとされ、
兼好ブームが過ぎ去ります。
江戸時代に『園太暦』からの抜粋として
流布されたこの記事が偽物であったとして、
『園太歴』とは何なのでしょうか。
『園太暦』は南北朝時代の公卿・洞院公賢が、
延慶二年(1309)から延文五年(1360)に
筆記した漢文体の日記とさてています。
後醍醐天皇と建武の新政が1333年なので、
南朝の状況を知るにはど真ん中の史料です。
伝来の過程で一部が散逸してしまい、
江戸時代には本来の姿は失われており、
江戸時代に流布した兼好伝の記事は、
残された『園太暦』の散逸箇所などを
巧妙に利用した偽文とされています。
そもそも南朝の記録自体が
足利サイドから完全に抹消され、
都合よく捏造された物しか
残されてはいない状況です。
と言う事でこれらを全て偽物として
終わりに出来るかと言うとそうでもなく、
伊賀における兼好伝承なども残され、
多角的な研究をする余地があります。
兼好が生きた時代が南朝と重なるなら、
この時代のキーマンであった可能性が
皆無とは言い切れないでしょう。
実際に兼好は後醍醐天皇と関わり、
様々な謎が残されています。
兼好が南朝よりだと思っていたら
鎌倉側だったと言う人がいますが、
私の説では南朝を作ったのが鎌倉で、
別に矛盾する話ではないですね。