稲荷と修験

後醍醐天皇が崇敬した伏見稲荷は
元々は蛇(龍蛇)信仰の中心地で、
秦氏が稲荷山に稲荷神を祀る以前は
紀氏(三輪系)や賀茂氏系による
管轄がなされていた山とされます。

稲荷山に三基の古墳があったとされ、
いずれも破損し形状が分からず、
計四枚の鏡も出土している事から、
祭祀遺跡とする説もあります。

藤本神社の藤本祭は伏見稲荷まで
土地を返せと神輿で押しかけますが、
藤本神社は稲荷山地区の産土神です。

『東三河の徐福伝承』の中に
二系統の秦氏について書きましたが、
稲荷山は新旧の秦氏の対立が見える
古代からの聖地のようですね。

稲荷山は修験の聖地ともされ、
白山修験の開祖とされる秦澄が
白山を開いた後に吉野山や稲荷山、
阿蘇山で奇跡を顕したそうです。

奈良・平安時代における稲荷山は
鞍馬山や愛石山と並ぶ霊場であり、
後醍醐天皇の伏見稲荷の信仰は
二つの秦氏のどちら側の信仰かが
問題となるのは間違いなさそうです。

白山は花祭、新羅、役小角等と関係し、
修験道は先住民族祭祀の鬼道に連なります。

後醍醐天皇による伏見稲荷信仰には
隠された側面が存在するようで、
ここの解析に時間を食っています。

稲荷神の深層は余りにも深い上に
取り扱い注意の存在でもあるので、
中途半端に関わりたく無かったのに、
南朝を扱う上では避けて通れないので、
色々とまわって苦労している最中です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする