神道の定義

神道に対する考え方については、
『日本的霊性』の中で鈴木大拙氏が
伊勢神通について述べた部分が、
大きく幅を利かせている感があります。

少し長い引用なので、
著作権に問題がある場合は、
コメントで教えて頂ければ、
即行で削除しておきます。

鎌倉時代に日本人の霊性が
目覚めてきた事実につきては、
さまざまの因縁があることであろうが、
とにかくその事実だけは
確かに有るのである。

それは当時、伊勢神道なるものが
唱え出されたことによりても
認められるのである。

伊勢神道の起こった気縁につきては、
必ずしも霊性の問題と
連関をもっていないにしても、
出てきた結果には明らかに
その事実が 認められるのである。

世間で往々『神道』にはなんら思想的内容がない、
何かあるとすれば仏教か老荘か儒教から
借りてきたものであると言う人がある。

それにも一理がないでもないが、
何かほかから借りてくるにしても、
それを借りる主体がなくてはならぬ。

『神道』が有ると考えられる内容は
素朴的な原始性のもので、
いわゆる外来のものに対して
拮抗するだけの実質をもっていないと、
そう一律に却下し去るわけにいかない。

なぜかと言うに、
『神道』はいつもそのものに対して
抵抗するだけの実質をもっていないと、
その名に却下し去るわけにいかない。

なぜかと言うに、
『神道』はいつもその名によりて
『外来』底を相手にして
自律性を強調するからである。

そこには勿論、いつも強い政治的意味が
含められておるには相違ないが、
何もなくては、それみずからを肯定しない。

それなら『それみずから』なるものは何か。
自分の考えでは、神道が『それみずから』に
初めて目覚めたのが伊勢神道である。
即ち伊勢神道が『神道』の目覚めである。

それで伊勢神道がすベての神道の
根源的なものとなったのである。

神道と一般的に呼ばれてはいるものの、
外宮に由来する伊勢神道の影響は大きく、
ここに認識の大きなギャップが
存在している感があります。

一般的に神道といえば伊勢の神宮で、
天照大神を祀る内宮を想像する人が
多いと思われる節がありますが、
外宮と内宮に違いがあるのでしょうか。

内宮より先に外宮に参拝するように、
二見の猿田彦を祀る神社で禊をして
内宮に参拝する事にもなっていますが、
伊勢125社に猿田彦の神社はありません。

この深層を掘り下げていく事により、
一般的に神道と思われているものの認識が
大きく変わる可能性がありますが、
まだまだ研究途上でもあるので、
少しづつ展開していこうと思います。

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