日本の宗廟の謎

伊勢の神宮と石清水八幡宮は
二大宗廟と呼ばれています。

子孫が死んだ権力者を祀る場所を
宗廟と呼ぶ事は儒教に由来し、
日光東照宮に家康が祭られるように
権力の根拠とされるものであり、
廟は神を祀る場所ではありません。

応神天皇の時代に王仁博士が渡来して
儒教を持ち込んだとされているので、
応神天皇を祀る宇佐八幡宮から勧請した
石清水八幡宮が宗廟とされるのは、
ここにも関係付けられているのでしょうか。

古代において唯一廟と呼ばれたものは
仲哀天皇と神功皇后を祀る香椎廟とされ、
当時は廟とされ神社として扱われておらず、
「延喜式』神名帳にも載っていません。

伊勢の神宮に次いで朝廷の御尊崇が篤く、
宇佐八幡宮は香椎廟に準ずるとされ、
伊勢の神宮・氣比神宮・石清水八幡宮と共に
「本朝四所」の一所に数えられたそうです。

即位・大嘗・変災・外寇その他にわたり、
国家に大事には必ず奉幣の御儀があったとされ、
仲哀天皇は神に逆らい殺されたとされるのに
ここまで盛大に祀られるのは何故でしょう。

社伝によると初期の香椎宮はにおいては
仲哀天皇・神功皇后の両者が尊重され、
いつしか神功皇后のものになったとします。

神功皇后=卑弥呼説は一貫して主張してきましたが、
ここからもそれが見えると思います。

菅原道真を祀る北野神社も平安時代には
北野廟あるいは聖廟と呼ばれており、
神社として扱われていなかったようです。

神宮と八幡宮が二大宗廟と呼ばれたのは
一般的に中世以降の事とされています。

『神皇正統記』垂仁天皇の条で神宮を
「天下第一ノ宗廟ニマシマス」とし、
応神天皇の条には八幡宮も記載され、
「シカルニ天照太神ノ宮ニナラビテ、
二所ノ宗廟トテ八幡ヲアフギ申サルゝコト、
イトタウトキ御事也。」と見えます。

久保田収氏は十二世紀初め頃から
告文類などに八幡宮を廟と書き初め、
それが次第に一般化したとしています。

伊勢神宮を宗廟した時期は不明確で、
『神宮雑例栗』第六、内侍所の事の条にある
永暦元年(1160)五月十一日の宣命に、

爰去年十二月十日。事出不図天。
兵革俄起之間。為凶悪之輩。
雖被掠取内侍所毛。依宗廟之厚助天。
奉納之櫃雕雖紛失毛。正体自然出来給へ利。

『兵範記』仁安三年(1168)十二月二十九日の条の
伊勢神宮の焼亡に関する記事の中に、

今案ずるに、例いまだかつて有らずといへども、
師元朝臣の勘申に任せて、五日の廃務ありて、
太廟の他に異なることを表はす、

と十二世紀の神宮を宗廟とする記述はありますが、
それ以前の文献には見い出されておらず、
いつ頃からかは定かではないようです。

皇室の祖神を祀る神宮を宗廟とする見方は
八幡宮ほど一般化する事はなく、
伊勢神道が神宮宗廟観を鼓吹した事から
一般化したと見る向きもあるようです。

廟は人を祀るので八幡宮は分かりますが、
伊勢の神宮をそう呼ぶのは何故でしょう。
天照大神は皇室の祖神とされますが
人ではないので廟として扱えません。

壬申の乱で権力を握った女帝・持統天皇は、
夫の天武天皇の墓に一緒に埋葬されたと
伝えられて来てはいるのですが、
実地で研究すると色々な疑問が出ます。

持統天皇は天智天皇の家系に属し、
天武天皇が天下をとったはずなのに、
天智天皇の系統で皇室が占められます。

即天武后が天武の后に即すと書くのは、
両者に何らかの関係が存在したのか、
武即天の保護した三つの一神教は、
この頃に日本に入ってきています。

伊勢の内宮が宗廟と呼ばれたのは、
壬申の乱や古事記・日本書紀編纂に
密接に関わった存在であるこの女帝が、
ここに祀られているからなのでしょうか。

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