「考」の概念が祭祀と関係している可能性を
赤塚忠氏が『詩経研究』で提唱しています。
「殷代には、降神・招神することを一般に凡といい、
特にその儀礼を考凡といっていた。
『風』はこの音を写したものに過ぎない。
凡が降神・招神を意味することは、
戦国時代以後はほとんど忘れ去られたが、
同音の般に、般遊・般楽などとその引伸義が残っている。
般遊は、神を迎えその神が神遊びすることから、
般楽は神を招いて歌舞して楽しむことから
来ているとしなければならぬ。
『詩経』のうちには、考凡という語を用いて、
その古い儀礼も伝えているものさえある。」
親孝行などに使われる考ですが、
神を降ろして歌舞する儀礼にも考が使われ
親のみでなく神事にも考が用いられていたなら
広範囲に渡る概念とされてきたのでしょうか。
「考経」は、親への真心や兄との睦まじさが
そのまま国事における人間関係に移せるので、
国を治める前に家をととのえる事を重視し、
素朴で温かい家の中で人間関係を推し広げる事が
国の運営の基礎とされています。
天を父とし地を母とするともあり、
後世に名を残すような大業も、
親や国君、天地への考が元とされました。
陰宅風水(墓)についても考が基本となり
徳がなければ良い土地を得て先祖を祀っても福は来ず
実利を求める前に誠が重視されていますが、
これも殷では神降ろしの儀礼的な意味合いが
存在していたのかも知れません。
『礼記』の「祭義」には考子が父母の祭祀を行う時、
斎戒沐浴をし供物を捧げ礼楽を行い神霊をもてなし、
恍惚の中に輝ける神と交わる事が記されており、
「君子反古復始、不忘其所由生也。
(君子が古にかえり原点にもどるのは、
生まれ来た根元を忘れぬためである。)」
と、自らの根を重視した事が分かります。
徐福の時代に儒教が持ち込まれ、
江戸時代まで五経が学習されてきたとすれば、
明治より前まではこの思想が日本にも継承され、
先祖崇拝も違った意味で考えられていたのでしょう。
明治以降、余りに大きく概念が代わり、
基幹がより優れたものになったとは
言い難い部分があります。
アジアの深層を見直した上で、
今後を考える必要があるのでしょう。