平城上皇が遷都を宣言した事で、
伊勢・近江・美濃三国の国府と
故関(鈴鹿・逢坂・不破の三関)に
野足らの使者を派遣して、
厳戒態勢が取られたそうです。
これは万一の事態に備えるための
伝統的な措置と言われており、
中央の反乱乱者が東国に入って
軍勢を整え侵攻される事の
防止が目的とされています。
ただ伝統と言っても何時からか
不明瞭な部分がありますが、
壬申の乱を侵略戦争とする
私の研究から考えると、
先住民族との戦争を想定した
対応であった線が濃そうです。
この周辺は坂上田村麻呂の
時代ではあるのですが、
表に中々出される事のない
田村麻呂伝承が存在し、
まだ書きにくい話なのが
面倒な所ではありますね。
段階が来れば出しますが、
物証を押さえているので、
私の独断で片付けられない
定説を覆す話になります。
田村麻呂と言えば先代の
桓武天皇の時期に東北へと
征伐に行った話が有名でも、
潮満・潮干の玉を用いた
伝承が某所に残されています。
何故こんな場所に田村麻呂の
伝承が残されているのかと
疑問が浮かぶ地域の話であり、
私の行基の研究を補強する
根拠の一つとなっています。