文宗皇帝は甘露の変の後に
まもなく病死する際、
自ら時の大臣を招いて
後継者を遺言するも、
宦者は武宗を皇帝に擁立。
文宗の死ぬ間際に遺詔を受け
王位の継承に責任を持った
牛僧孺の一派は失脚し、
反対派の首領の李徳裕が就任。
李徳裕は武宗の信頼を受け、
宦官を押さえる動きを
出して行ったとされます。
武宗が皇帝となったのは、
宦官の読み間違いに由来し、
自由に操れる人物であると
思わせる見せかけに騙され、
飼い犬に手を噛まれた様な
結果となった文脈ですね。
余りにも血生臭い宦官の
動きを見てきた皇帝なら、
対応を間違えれば自らも
抹殺対象とされる事は、
認知していた事でしょう。
李徳裕と組んで宦官や官僚の
影響力を排除しなければ、
唐がどうなるかは簡単な話で、
有効打を打たない限りは、
危険極まりない状態です。
会昌の廃仏はこの流れで
皇帝になった後に起こされ、
845年に始められた記述は、
円仁の日記で842年には
遡れる事が分かっています。
武宗が皇帝となったのが
840年とされている事から、
廃仏がどれだけ重要な
政治的課題であったかを
伺う事が出来るでしょう。