宦官が政治に関与したのは、
魚朝恩が神策軍を率いて
中央に乗り出した時に
確定的となったとされます。
神策軍は対チベットの第一線の
河源九曲(廿粛・青海省)の地に
設置された辺境防衛軍とされ、
政治的な力を持たなかったのに、
唐の政界に多大な力を持って来ます。
ソグド人より安史の乱が勃発、
唐朝は辺境軍に動員令を出し、
神策軍の一部が戦局を左右する
安陽(河南省)の戦いに加わるも、
救援に来た史思明に破られます。
神策軍は陝州(河南省)まで
撤退したところで行き場を失い、
安陽から逃げてきた宦官の
魚朝恩と合流しました。
魚朝恩は観軍容宣慰処置使という
全軍監視の役目であったので、
敗北の責任を問われないため、
神策軍を自分の軍とする事で、
反撃の機会をうかがいます。
広徳元年(763)一〇月に
吐蕃が長安に攻め込んだ時に
代宗を迎え入れる事に成功し、
魚朝恩は代宗を擁しする事で、
中央復帰を果たしています。
僕固懐恩の乱が起った時には、
魚朝恩は神策軍を率いて
城内を固めて功績を上げ、
神策軍は中央禁軍の中心に
登りつめる事となります。
神策軍が皇帝の身辺を固める
皇帝の個人的兵力であった物の、
畿内各所に自身の領地を持ち、
権力基盤を得る事となります。
大暦五年(770)には魚朝恩が
専横であった事から誅殺され、
神策軍の兵権は宦官の手から
一旦は離れる事になります
建中四年(783)の兵士の反乱で
神策軍が救護に駆けつけた時に
神策軍の要職に宦官をあてた事で、
宦官支配に繋がったとされます。
宦官が神策軍と言う軍事力を
保持していたのであれば、
宦官支配に対抗しようとすれば、
軍事クーデターが想定されます。
そして神策軍は会昌の廃仏にも
密接に関わって来ます。