唐では会昌の廃仏が841年に
始められた事になっていますが、
日本はどうだったのでしょう。
嵯峨天皇が弘仁十四年(823)に
譲位した事で淳和天皇が立ち、
淳和天皇は恒世親王を皇太子に
立てようとするも固辞され、
嵯峨皇子の正良が皇太子に
なったと伝えられています。
恒世親王が天長三年(826)に
崩御してしまった事により、
淳和天皇の子の恒貞親王が
生まれてすぐであった事から、
嗟峨皇統と淳和皇統による
神経戦が行われたとされます。
天長十年(833)に淳和天皇が譲位し
皇太子正良が仁明天皇に即位し、
恒貞が皇太子に立てられたそうです。
承和七年(840)に淳和が死去し、
二年後に嵯峨が死去したとされ、
伴健岑と橘逸勢が恒貞皇太子を奉じ
東国に向かおうとしている事が
密告された事になっていますね。
嵯峨天皇の死去と会昌の廃仏が
時期的に重なっていますが、
大陸で大規模な一神教勢力の
排除運動が行われていたなら、
これが新羅や日本に波及した
可能性は十分にあります。
橘逸勢の起こした承和の変は、
天皇の崩御による皇位継承が
発端となったとされていますが、
東国の勢力を伴う事による
大規模な軍事的衝突を懸念して
三関の封鎖がなされたとされ、
やはり軍事の臭いがします。