佐伯有清氏は『最後の遣唐使』に、
小野岑守が新羅商船と直接的に
太いパイプが存在した事を
示す証拠を提示されています。
小野一族は新羅と関係が深く、
小野妹子を見れば分かるように、
外国に使を派遣する業務に
深く関わって来ています。
空海や橘逸勢の渡唐が新羅船で
行われていたと仮定すれば、
新羅を見下す記述しかしない
朝廷側には不都合な話です。
彼らの入唐の時期が遅いのに
早急に切り上げ帰国した話は、
新羅を通じた先住民族側の
遣唐使の存在を隠蔽する
目的もあったのでしょうか。
唐・新羅・倭国の連合と
高句麗・百済との戦いは
形を変え継続していますが、
平城天皇は前者側ですね。
遠江に七百人の新羅人がいて
反乱を起こしたとする話も、
浜名湖周辺が新羅側からも
重視されたエリアであった
可能性が相応にあります。
そして非常に問題なのが、
このエリアで橘逸勢が
流罪にされた途上で
死んだとされる事です。
朝廷以前の先住民族側は
唐・新羅との関係が深く、
この関係が復興していれば、
浜名湖周辺に多く新羅人が
存在した背景が伺われます。
三遠に古代王朝が存在した事を
様々な著作で語って来ましたが、
この段階で復興がなされており、
橘逸勢がその中核で活躍した
可能性が浮上して来ます。