新羅への外交方針の転換

日本は新羅商船の力を借りる事で
遣唐使の帰国などが行われましたが、
承和九年(845)に日本の外交方針に
変更があった記述が残されています。

新羅からの帰化人対策に詳しかった
太宰大弐の藤原衛(まもる)による
新羅人の越境禁止の朝廷への進言により
新羅との関係が悪化したとされます。

これ以後は帰化を申請してきても、
漂着民に食料・衣服を与えて
追い返す事が基本方針となった事が
『貞観格(じょうがんきゃく)』に
記されていますが大問題ですね。

846年に会昌の廃仏が終わった事が
伝えられている事を考えると、
新羅に対する外交方針の変化にも
関係している線は濃そうです。

会昌の廃仏が終わった後に
外国方針に変化があった事に、
どんな意味があるのでしょう。

ここで新羅の張宝高の暗殺と
リンクして来る事になります。

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