平将門や藤原純友の乱の起こった承平年間に
志多羅神上洛事件が起こりましたが、
こちらは石清水八幡宮へ向かっています。
この時点で石清水八幡宮ではなく、
伊勢の神宮に向かうと言う発想は、
存在しなかったのでしょうか。
『大神宮諸雑事記』には伊勢の神宮での
承平四年(933)九月一六日の記述に、
神嘗祭の重要な祭祀を終えた後の直会の時に、
「参宮人十万、貴賤を論ぜず、恐れ長み心神を迷わし」
と十万人の参宮があった事が明示されています。
別の写本には千万とあるので実数ではなく、
大人数であった事を伝えているのでしょう。
これは夜十時頃の出来事の記述であり、
十万もの参拝者が直会の時に参拝すると言う
史実か否か釈然としない内容となっています。
『更級日記』に記された伊勢の記述には、
天照御神を常に念ぜよと勧められた受領の娘が、
神か人かの区別も所在地も分かっておらず、
女の身で内待所に行く訳にもいかず、
空の光を念じたらよいのか考える段があります。
優れた家柄で教養ある娘が神宮や大神を知らず、
天照と聞いて太陽を拝む事を連想するのは、
当時の認知度を物語っているのではないかと
推察されているようです。
伊勢参拝が一般化していたのであれば、
志多羅神も伊勢に向かった可能性は
あったのかも知れません。
この時点では伊勢参りは一般化されておらず、
後に外宮側により伊勢参拝が興されたなら、
伊勢参拝は秘されたものだったのでしょうか。
こちらに志多羅神が向かっていたなら、
日本の歴代が大きく変わっていた可能性は
ありえなくもない気がします。
伊勢には庶民はおろか天皇でさえ
参拝しなかったのであるならば、
外宮の度会氏はいかなる意図で
伊勢参拝を普及させたのでしょうか。
花祭の行われる奥三河の設楽と志多羅神、
外宮の度会氏が歴史の深層で繋がるなら、
伊勢参りも志多羅神上洛に通じる
古代王権に根拠を持つ重要な何かが
存在していたのかも知れません。