渤海と唐

会昌の廃仏が行われていた時の
渤海の王は大彝震とされていて、
在位は830年~857年とされます。

張宝高が暗殺された後に、
文聖王は851年に清海鎮を
廃止したとされています。

宣宗は不老長寿の薬を飲んで、
大中十三年(859)に中毒死と
伝えられている事を考えると、
大彝震は会昌の廃仏から、
その後の動向に関わっていた
人物と言う事になりますね。

大彝震の功績には府州を確定、
中央集権的な行政制度の確立、
募兵制による常備軍の編成等が
伝えられているようです。

軍事機構を発展させた事で知られ、
『旧唐書』には渤海の軍制として
左右神策軍・左右三軍・一百二十司が
設置された記録が残っていますが、
唐の神策軍を導入したのでしょうか。

神策軍は唐の中でも特殊な軍で、
一神教勢力の宦官が運営し、
簡単に素通り出来ない話です。

仇士良が渤海と関係を持ち、
軍事的な行動を起こしていた
可能性すら浮上して来ますね。

一神教国家であった渤海にも、
大規模な一神教排除運動が
波及していたとすれば、
唐・新羅連合が軍事介入を
行った可能性は高いでしょう。

この記述のみで推理する事は
余りにも強引な話なのですが、
アジア全土を総合的に見れば、
渤海のみが除外されたとは、
言い難い所があります。

高麗は高句麗の末裔を自称し、
渤海は高句麗の遺民が建てた
国家とされているので、
唐・新羅連合と敵対する
勢力であった可能性は、
非常に高い話となります。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする