南朝成立までの流れ

後醍醐天皇が南朝をたてる流れで
知っておく必要のある要素として、
鎌倉時代末期から皇室が二分し、
争っていた事が挙げられるでしょう。

後嵯峨天皇の長子が後深草天皇となり、
その後に弟が亀山天皇となりますが、
後嵯峨上皇が崩御した後に、
亀山天皇が自身の子を天皇につけ、
後宇多天皇とした事から不満が出ます。

後深草天皇が鎌倉幕府に訴えると、
後宇多天皇の次に後深草天皇の子の
伏見天皇を天皇とさせますが、
後宇多天皇方が不平を抱きます。

幕府は後深草天皇系の持明院統方と
亀山天皇系の大覚寺統方の皇族が、
交代で天皇の位につくよう決定します。

大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し、
後に足利尊氏が持明院統の天皇を擁護して
日本を二分する戦いに突き進んだのが
南北朝時代とされていますが、
この周辺には謎が存在しています。

持明院統は広大な荘園を代々保持しつつ
鎌倉幕府との良好な関係を保っており、
大覚寺統が相応の荘園を保持した記録は
見当たってはいないようです。

この程度でどうこう言いはしませんが、
総合的に研究を進める事によって、
この周辺に疑問が浮上してくるので、
研究を進める上での前提知識として
踏まえておいて頂ければと思います。

ここに切り込むには様々な研究が必要で、
扱うのは最後の方になりそうですが、
ブログで出さず本に書くだけに止めるか、
最悪書かずに終わる可能性もあります。

自分で振っておいてなんですが、
南朝の研究は慎重を要するもので、
察しの良い人なら分ると思います。

まあ今まで色々と読んできた方からすれば、
私の研究の飛び具合が分っているので、
何とはなしに察する事が出来ると思います。
結論が飛んでいてもデータや根拠は提示しており、
その部分に関しては問題ないと思ってはいますが。

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