儒教革命論

南朝は儒教、とりわけ朱子学を重視し、
官学として採用したとされています。

朱子学と言うキチガイ染みた思想に染まり、
独断的な正義を振りかざした独裁者として
後醍醐天皇が語られる事が多かったのは、
司馬遼太郎の言も大きかったと思います。

水戸学が南朝をもてはやす事により、
尊王思想に繋がったとされますが、
後醍醐天皇を尊敬したのではなく、
暗愚で不徳の天皇に仕えた臣下を
賛美する論調で語られていました。

南朝の正統性を説いたとされている
『神皇正統記』に書かれた内容も、
『孟子』の説いた易姓革命をベースに
徳の無い君主の皇統は断絶し他に移ると、
後醍醐天皇の批判があるとされています。

『神皇正統記』の著者である北畠親房が、
朱子が四書にあげた『孟子』を根拠に
易姓革命を語ったとされているのは、
本当に正しかったのでしょうか。

私が指摘する以前にこの儒教解釈は
全く違っている事が指摘されていて、
『北畠親房の儒学』で下川玲子氏は、
孟子は不徳の王を斥け異姓の王に換える
易姓革命を語っていたのではないとし、
『孟子』卷十「万章章句下、九」をあげます。

斉の宣王が卿(大臣)を孟子に問うた。
孟子は何の卿なのかを問うた。
王は言った、卿はみな同じではない、
貴戚の卿(王と同姓の卿)と異姓の卿がいる、と。
王は貴戚の卿について問うた。
孟子は言った、君主に過失があれば諌め、
繰り返しても聞かなければ退位させます、と。
王は顔色を変えた。
孟子は言った、驚かなで下さい、
敢えて正確に答えたまでです、と。
王は落ち着いた後、異姓の卿を問うた。
孟子は言った、君主に過失があれば諌め、
繰り返しても聞かなければ立ち去ります、と。

儒教をベースに強引な革命を求めたと言うなら、
少なくとも『孟子』が根拠ではない事になり、
どの文がその根拠となったかについて、
データを提示し検討する必要があります。

司馬遼太郎などは学術的な検討をせず、
歴史学の大家であるかの様な発言をしますが、
彼が間違った歴史を広めた事例は、
歴史家と話をしていると話題になります。

ここの周辺は掘り下げる必要がありますが、
様々な説の中で特定のものを絶対視するなら、
その根拠も提示する必要がありますね。

儒教経典の『易経』にも革命の卦があり、
沢火革の説明を読むとこうあります。

革。巳日乃孚。元亨利貞。悔亡。

変革すべき時に徳をもって動けば
悔いは無くなるとされているので、
親房が儒教に精通していたのなら、
主張に違和感を受けますね。

儒教は革命思想とは真逆の扱いもなされ、
親や権力者の言う事に絶対服従と言った
強引な主張もなされていますが、
『考経』や『礼記』に記された「考」は
全く違った意味合いで語られています。

『礼記』には三つの考が記されていて、
『考経』には国を潰さないために動く
「争臣論」が語られていいます。

「忠」も服従ではなく真心ほどの意味で、
仲睦まじい家を国の基本としており、
天下泰平の前に国、国の前に家、
家の前に自分の課題に向かい合う事を
物事の順序として基礎に位置付けます。

孔子は天を父とし地を母とするとし、
親孝行は天地の孝行に繋がるので、
家を疎かにして政治を語る人や、
自分を棚上げして人に説教する人は、
基礎からダメだと言っている様ですね。

儒教経典を読み込んでいくと、
現在語られているイメージとの違いが酷く、
政治的背景により意図的にねじ曲げられ、
現在にまで至っている感を受けます。

室町幕府が朱子学を歪めて表現したなら、
南朝のイメージを落とす事によって、
自身の政治を正当化する事に繋がります。

儒教は神道とも非常に相性が良く、
垂加神道などは一体として扱いますが、
南朝の歪められたイメージと共に、
大平洋戦争などに影響を与えています。

朱子学そのものが問題であったのか、
政治的に利用されねじ曲げられたのか、
他人からの聞きかじりの意見に左右されず、
各自で原文を読んだ上で自己責任において
判断する必要がある事なのでしょう。

南朝や後醍醐天皇のマイナスイメージの
根拠の一つとして朱子学が語られるので、
ここが崩れれば南朝のレベルは高く、
室町幕府により隠蔽がなされた可能性が
愕然と上がっては来そうです。

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