『天皇』と言う呼び名は
諡号(しごう)とされており、
この呼び名は漢風のものであり、
中国の古い制度を真似たとされます。
唐で天皇の名称が用いられた事が
鴎陽脩の記した『新唐書』や
『本記第四 則天皇后 中宗』に
書かれているところまで言えば、
当ブログの記事を読んできたなら、
既に言いたい事は分かりますね。
壬申の乱で先住民が征服され、
唐からゾロアスター教・マニ教・
ネストリウス派キリスト教が
この国に流入した事によって
天皇の名称が使われ始めます。
奈良県明日香村の飛鳥池工房跡から
『天皇』と記された木簡が見つかり、
古事記・日本書紀編纂の時期と
重なる時代の遺跡からの発見は、
この説の裏付けになりそうです。
この天皇の諡号が日本史上で
断絶してきた時期があった事は
余り知られてはいませんが、
これが南北朝の謎を解く
一つの鍵になる可能性について
書いて行こうと思います。
『天皇』の諡号は村上天皇崩御から
光格天皇の諡号に使われるまでの
967年~1841年の長期間に渡り、
用いられていなかったとされます。
明治時代の国定歴史教科書には
南北朝時代の二系統の皇統が
対等に併記されていたそうです。
大正の終わりに天皇崩御後の諡号が
『天皇』のみに統一されているので、
江戸時代までは天皇と言う名称は
用いられていなかったようです。
南朝を開いた後醍醐天皇の生誕は1288年、
天皇の諡号が用いられていない時代であり、
南朝天皇の系譜の不可思議な謎を解く
一つの鍵となるかも知れません。
南朝天皇の諡号には存在が不明とされた
長慶天皇を除いて頭に「後」がついており、
南朝から北朝に切り替わった後小松天皇も、
それ以前の系譜に小松天皇が存在しないのに
「後」がつけられています。
この周辺に纏わる物証を押さえていますが、
現時点で出して良いかは不明なので、
当面は控えさせて頂こうと思っています。
南朝についての疑問が幾つか存在し、
その中の一つがこの諡号問題ですが、
「天皇」が用いられなかったとされる間に
南朝天皇の名前に纏わる謎が存在する事は、
解明すべき課題があると言う事なのでしょう。