後醍醐天皇が滅ぼしたとされる鎌倉幕府は、
元寇で戦った武士への恩賞の問題であったり、
飢餓による不満の鬱積であったりと、
滅亡の原因が様々に語られている様です。
実際のところはどうかと言うと、
良く分かっていないのが本当の所で、
明確に断定できる状況ではない様です。
今まで様々な仮説が提唱されたものの、
研究が進むほど仮説が成り立たなくなる
具体的な議論の中身について書かれた本も
出発されているので各自検討が可能です。
2007年の日本史研究大会・中世部会で、
熊谷隆之氏によって報告された
「鎌倉幕府支配の展開と守護」では、
時代が下るにつれ幕府の地域支配が
強化されてる事を論じました。
なぜ支配が強化されるのに滅びたか
質問された事に対する回答として、
理由を一言で説明するのは難しいと
即断したそうで良心的ですね。
元寇で戦ったのに御家人とされず、
差別から反抗に出たとされますが、
倒幕に功績のあった楠木氏は御家人で、
赤松氏は六波羅探題の御家人であったと
近年の研究により指摘されています。
後醍醐天皇が幕府と対立的だったかも
かなり怪しい部分があるようなので
追々論じていこうと思いますが、
後醍醐天皇に纏わる文献の記述に
かなりの問題が存在するのであれば、
その背景に何が存在したのでしょうか。