楠木正成の痕跡

豊田市の若宮八幡社境内の地名を
楠一番地と言ったそうですが、
ここには楠木正成に纏わる伝承が
幾つも残されている様です。

昔から楠公の旧地として楠の名があり、
梅ケ坪には正成の別名に因んだ多聞地
あるいは多聞塚と呼ばれる所があり、
多聞寺という道場があったそうです。

楠木正成は多聞天の化生とされた
南朝最大の英雄とされており、
これだけならロマンを楽しめますが、
問題となる箇所が見受けられます。

神社の由緒書きは1333年の千早城陥落後、
正成が隠れて南朝の再起をはかるため、
武運祈願のため建立したとありますが、
楠木軍は千早城の戦いで勝利したと
一般的な歴史では語られています。

楠木正成は謎多き武将であり、
正統であっても暗愚で不徳な
後醍醐天皇に忠義を尽くす、
智・仁・勇の三徳を兼ね備えた
日本最高の武将と讃えられています。

ここから悲劇のヒーローとして
江戸時代に賛美された事から、
明治以降の天皇に忠義を尽くす
見本ような存在にされましたが、
どの様な背景のもと矛盾する伝承が
残される事になったのでしょうか。

南北朝時代は日本史の重要な時期なのに
異常なほどに史料が少ない時期とされ、
『太平記』も軍記物で信頼度は微妙であり、
由緒書きの歴史が正しい可能性もあります。

史料が少ない上に信憑性も弱いなら、
地元の伝承などもかき集めた上で、
総合的な検討を行う必要があるでしょう。

足助の地は静岡県西部と同様、
南朝の重要な拠点とされており、
この地で様々な戦いが行われた事は
間違いはないのでしょうが、
両者の中間の東三河の南朝の歴史は
いかなる物のだったのでしょう。

既存の歴史はここを空白とまでは
言ってはいないとしても、
静岡県西部にあった南朝の拠点の
西端の防衛ライン程度の認識で、
そこまで重要な地とされていません。

東三河にも楠木伝承があり、
メルマガ読者と楠木を祀る神社に
調査に行った事がありますが、
やはり実地は感じる物がありますね。

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