伊勢神道は南朝との関係を深めた事で、
室町時代に衰退したとされています。
後醍醐天皇と伊勢神道の関係が深いなら、
皇室サイドの祖神を祀る内宮ではなく、
鬼道に通じる外宮の教義を尊重したのは、
いかなる理由があっての事なのでしょうか。
衰退した伊勢神道の後に興ってきたのが
吉田神道なのは記事にしてきましたが、
吉田神道の創始に関わる吉田兼好が
始終南朝側であった事などに関しては、
それほど有名ではないようです。
吉田神道も伊勢神道に通じており、
八角形の大元宮が鬼道に通じるなら、
南朝の信仰は邪馬台国に通じています。
伊勢の斎宮は後醍醐天皇により再興され、
その後に廃れたとされているのは、
南朝と伊勢の深い関係を示唆しますが、
北畠親房も伊勢で伊勢神道を学んで
南朝のイデオロギーに用いたとされ、
研究テーマとして十分なものがあります。
ええじゃないかに連なる様々な舞の流行も
邪馬台国の鬼道に通じたものであれば、
南朝は鬼神を信仰していたのでしょうか。
これに関してはイエスと言いたい所ですが、
まだ諸般の事情があり出せるかは不明です。
志多羅神事件は菅原道真にも関わり、
後醍醐天皇の道真の関わりについても、
調べると面白いものが見えてきます。
鎌倉幕府は伊勢神道を重視し、
武家独立政権を作った源頼朝は、
三遠の歴史にも精通していました。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼしたと
既存の歴史では言われていますが、
信仰的には同じく伊勢神道系である
鎌倉幕府との親和性は高かったようで、
人事においてもそれが見えます。
後醍醐天皇は反鎌倉幕府なのに対し、
持明院統の花山天皇は幕府とベッタリで
後醍醐天皇批判をしたとされますが、
この周辺も見直すべき所が多そうです。