真言密教と伏見稲荷

伏見稲荷は空海が東寺の鎮守と定めた
真言密教の守護神とされています。

五月の稲荷祭では東寺の門前で、
東寺の僧侶が神輿を供養をする行事が
続いているそうです。

稲荷盟約(いなりうけい)と言い、
稲荷神が真言密教を守護する事を
誓ったと伝えられているので、
密教と稲荷の関係が深いのなら、
後醍醐天皇が信仰した理由にはなります。

稲荷山は空海よりも前から聖地とされ、
和銅四年(711)二月の初午の日に、
秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が
伊奈利山三ヶ峯に三柱の神を祀ったと
伝承がなされている事を考慮すると、
これも壬申の乱以降に先住民族の聖地が
渡来側のものになったと見れます。

ここにも徐福由来と後発組の
二系統の秦氏が見え隠れしますが、
稲荷山が伊奈利山と呼ばれていて、
稲荷の当て字がされたのは後なので、
伊奈利の字は別のニュアンスで
用いられた可能性がありそうです。

伊の文字は伊勢にも用いられ、
祭祀に関わる意味があるので、
牧歌的な雰囲気ではありませんね。

伏見も伏して見るで祈る姿なのか、
人偏に犬なのかは分かりませんが、
三柱の神に謎がありそうです。

空海が稲穂の神としての稲荷神を
稲荷山に祀った事を考えると、
本来の稲荷信仰に近いものを、
空海がリバイバルした可能性も
あるにはありそうな感じがします。

稲荷山に行く人の中でもマイナーな話に
古代祭祀と関わる要素がありますが、
今一つ出して良いか分からない所があり、
現地調査などで御一緒する事があれば、
この周辺も色々と回りましょう。

後醍醐天皇が古代の稲荷信仰を
復興させた側だったとすれば、
この信仰が歴史から消されても
不思議はないところですが、
真言立川流の邪悪なイメージも、
この目的で喧伝されたのでしょうか。

稲荷信仰が一系統ではない事は
調査を進めると見えてきますが、
少なくとも後醍醐天皇は商売繁盛で
稲荷を信仰していなかった事だけは
間違いないの事でしょう。

後醍醐天皇と稲荷が切れない関係なら、
稲荷信仰と南朝の隠された層には、
共通した部分が存在しますね。

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