伏見稲荷とダキニ天

弘仁十四年(823)空海が二階観音堂に
初めてダキニ天を祀ったとされ、
寺の名が善能寺に改められたといいます。

もとは八条油小路ないし西八条猪鼻熊にあり
後に現在の地に遷されたとされますが、
空海は稲荷神だけでなくダキニ天とも
関係していた痕跡になりますね。

『稲荷大明神流記』に記された
空海と稲荷神との関係を探ると、
中国で会った稲荷神を東寺に呼び、
八条二階の柴守の家に寄宿したと
伝えているようです。

八条の二階堂は今の御旅所とされ、
空海は神輿を伏見稲荷、東寺、御旅所に
回らせる様になったと伝えられますが、
もし稲荷神が二階観音堂と関係するなら、
ダキニ天が伏見稲荷から隠された可能性が
浮上してくる事になりますね。

豊川稲荷にダキニ天が祀られるのに、
伏見稲荷には見えてはいませんが、
以前は稲荷山に愛染堂があって、
ダキニ天が祀られていたそうです。

これらから推察するに空海の時代には
伏見稲荷とダキニ天は関係を有しており、
どこか段階でこれが抹消された可能性を
指摘する事が出来るのでしょう。

私はこれが南北朝対立に関係し、
後醍醐天皇が関係したダキニ天の姿は
この頃に歴史の表舞台から消され、
邪悪なレッテルが貼られた可能性が
あるのではないかと睨んでいます。

後醍醐天皇と伏見稲荷の関係は
伝承として残されていますが、
ダキニ天との関係は真言立川流の
邪法に登場するダキニ天のみが
語り継がれて来てはいます。

これにより後醍醐天皇とダキニ天は
徹底的に低い存在としての烙印を押され、
南朝の邪悪なイメージが決定付けられ、
その信仰・政治思想・経済・文化などの
様々な優れたものを隠す事によって、
室町幕府の正当化がなされたのでしょうか。

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