神道と話す草

記事ばかり書いていると疲弊しますが、
やはり花や木や川には癒されますね。

朝倉川

南朝の調査に出掛けた帰りに
朝倉川を渡って来ましたが、
川の神と語り合う感じがして、
静かな高揚感がありました。

声をかけてくれる感じがする
花や木が時々ありますが、
昔は普通の感覚だったようです。

神道で用いられる大祓詞には、

語(こと)問ひし磐根樹根立
草の片葉をも語止めて

と岩や草木が語るのを辞めたとし、
古代日本では草木と語るのが
特殊ではなかったようです。

木の実がやけに気になったので
調べたら食べられるのが分り、
食べると甘酸っぱさが口中に広がり、
全身に染み渡る感じがしました。

語りかけられる感じがしなければ
そのままスルーしていましたが、
自然と仲良くするとこう言う事が
良くあって結構感動しますね。

放っておくと実が落ちて腐るので、
食べれる事を伝えてはいますが、
怪しい人扱いして食べない人もいて、
勿体無いなと思っています。

子供の方が余分な知識や邪念がない分、
自然と良い関係を作っているのか、
子供に話したら既に食べていました。

同じ木でも違う場所で実を食べたら、
そこまでは美味しくなかったですね。
優しく声をかけてくれるのを食べる方が、
断然に美味しく感じるのは確かです。

食べれるものも多いですが、
危険な草なども結構あり、
ヨモギに似た見た目であっても
裏が白くないのはトリカブトで
毒に対する知識は必要ですね。

自然との対話は危ない人のイメージも
若干あるにはある事は確かですが、
癒される事は間違いありません。

流石に私もこの風少し泣いていますと
横で語られたらヤバいとは思いますが、
儒教経典にも風の質を読んで影響を見る
八風の概念が議論されており、
中国医学でも風は重視されます。

植物を程度の低い魂とみる考えは
アリストテレスからの流れですが、
彼はギリシャ人以外を奴隷とする
差別意識が強かったようです。

結局、現代の自然への関わりは、
人を優位におく差別意識が根にあり、
生徒であったアレクサンダー大王は、
多民族を奴隷とするのに反対して、
歴史に名高い大帝国を構築しました。

大王はミューズの神殿の付属機関の
アレクサンドリア図書館を作り、
高度な知的活動を推進しているので、
自然を低く見る事が知性が高いとする
知的高慢さは中途半端な証なのでしょう。

研究の最先は常にアップデートし、
昔の知識で全てが分かっているように
錯覚していると恥にしかなりませんが、
自然と触れると新らしい発見があって、
君子は日々新たに学ぶと言われた意味が
少しは分かる感じがします。

蛇が池を泳いでいるのを見た時は
流石に驚きの質が違いましたが、
古代日本では自然と語り合う事で
もっと豊かな世界を満喫していたなら、
現代人の求めているものの程度は、
それ程高くないのかも知れませんね。

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