愛染明王と真言立川流

後醍醐天皇の信仰した愛染明王は、
現在では人から愛される呪法として
認知されている存在ではありますが、
本来の姿は遥かに高貴とされます。

密教経典の『金剛頂経』中の『瑜祇経』の
「愛染王品第五」に愛染明王が記され、

三世三界中 一切無能越
此名金剛王 頂中最勝名
金剛薩埵定 一切諸佛母

三世三界中の一切は越えることができぬ。
この名は金剛王、金剛頂経の中の最勝の名。
金剛薩埵が一切の諸仏の母と定めた。

として金剛界最高の明王と解釈される程、
尊い存在として認識されていた様です。

日本で不動明王と愛染明王を祀るのは、
1338年頃に文観により成立した、
『三尊(一二寸)合行秘次第』より
始まったとされている様です。

文観と言えば後醍醐天皇に仕え、
邪術を行う者と汚名を着せられた
当時最高峰の密教行者であったので、
真言立川流が邪法とされた事により、
愛染明王・ダキニ天の真実の姿が
隠されたと見る事が出来そうです。

1338年頃の成立とされるところに
かなりの問題が付随しているのですが、
後醍醐天皇の建武の新政は1333年、
その三年後には足利尊氏が反抗し、
南北朝の対立の流れに繋がるとされます。

1338年は後醍醐天皇が三種の神器を持ち出し、
南朝を開いた年とされてはいますが、
1335年に高野山で文観批判がなされたとされ、
中々にカオスな状況下で著された事になります。

これだと南朝の信仰の在り方のみでなく、
足利尊氏の反乱の歴史まで怪しくなり、
この時代そのものを見直す必要すら
出てきそうな雰囲気がありますね。

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