三河吉野朝を記す『青木文書』

ある程度は周辺情報を押さえてきたので、
そろそろ本丸の東三河の南朝の研究を
手掛けていこうかと思います。

ここに南朝(吉野朝)の正流が存在した事は
全くもって私のオリジナルな研究ではなく、
既に研究者が本を何冊も出しています。

ただある理由でこれが陽の目を見る事なく、
歴史の表舞台に立たずにいるので、
もう一度これを洗い直す必要があります。

私もこれらの研究が全て正しいかと言えば、
そうとは言い切れないと思われる部分もあり、
検討をせずに正しい情報として流す事は
余り宜しくない行為なのでしょう。

メルマガ読者と青木神社に参拝しましたが、
三河吉野朝について記された唯一の文献は、
御油町青木家に所蔵されてきた古記録である
『青木文書』とされています。

この記録は青木家の先祖である平馬が、
応永三十年(1423)から翌年にかけて
史実を残すために記した覚書とされます。

鎌倉時代末期から南北朝時代の公家の
千種忠顕の子が青木和田尉盛勝で、
その子・平馬は父である盛勝と共に、
三河で長慶天皇と松良親王に仕たそうです。

唯一の資料であるこの文書の信憑性如何で
三河南朝の存在の度合いが大きく変わるので、
重箱の隅をつついて全否定となるような
短絡的な議論に誘導する形にならないよう、
気を付けて進める必要があります。

『看聞日記』は永享六年(1433)後半に
南朝皇統が壊滅的打撃を受けた事を記し、
その直前に記した覚書となりますが、
時代的背景を推察すると様々な事を
考えさせる要素が存在していますね。

三河南朝の研究者も何人か存在しますが、
人により違った説を提唱している部分が
幾つも見受けられる事もあるので、
他人の説を流用しても事足りない状況で、
苦労している部分ではあります。

三河吉野朝の研究も『太平記』等に依存して
様々な部分を埋めている傾向が存在するので、
東三河の徐福王朝を研究してきた私からは、
色々と引っ掛かる部分が出てきます。

この観点からの南朝の研究の流れは見当たらず、
私が提唱しないと誰も行わない可能性があります。

魅力的ではあるものの疑問符のつく部分が
既存の研究に存在しているのは間違いなく、
これらを含めた多角的な研究の流れが出るよう
頑張って執筆しているところです。

三河南朝の認知度が上がれば花祭にも関わるので、
保護や地域振興に繋がるなら意義はありますね。

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