笠置寺に行くため名古屋から南下し、
亀山駅から乗り換え山脈を西に進み、
笠置の駅から降りて寺に行く途中、
伊賀に向かうルートが示されており、
近畿のド真ん中に来た感じがしました。
南朝と伊賀の関係を掘り下げると
更に色々と出てくるのですが、
これはこれで大きなテーマで、
日本史のイメージが更に変わります。
奈良と京都の文化が交わる地で、
交通の要衝であったとすれば、
地理的な重要性は高かったはずで、
山々に囲まれた奥まった地で
静かにひっそりと言うイメージで
語れないほど栄えていたのでしょうか。
近畿の中心に位置する聖地であり、
山上に巨石が聳える御神体山なら、
聖都として栄えていても良さそうで、
後醍醐天皇が鎌倉幕府から逃げて
ここに居を構えたというよりは、
都市構築のレベルの気もします。
ここに醍醐天皇と菅原道真が来て
云々と言う伝承に関しても、
国家のトップクラスの要人が
僻地に観光に来た訳でもなく、
政治的な意味があったのでしょう。
鎌倉幕府による全山焼失の伝承は、
後醍醐天皇が復興した縄文からの
聖都の痕跡を破壊した事を
カムフラージュする目的での
捏造であった気もしますね。
笠置山を観光地としてではなく、
近畿の中心としてどうあるべきかを
十分に考えた上での復興をすれば、
本来の価値を引き出せそうです。
自然との調和を高度なレベルで
成し遂げてきた古代の技術力には、
目を見張るものがありますが、
風水師からみた笠置の研究は、
ここがマイナーなエリアだけに、
全く目にした事がありません。
目先の利権などで開発するのは
余りにも軽薄すぎる話でしかなく、
基礎研究を十分にしておくのが
前提となるのは当然の話です。
古代からの聖地として復興するなら、
太古の思想や技術を研究した上で、
それに共感する人が訪れる事が
重要になって来るのでしょう。
『詩経』には都市開発の前に、
天地の神々とどう関わるかが
重視された事の分かる詩があり、
現代の環境破壊に対する
一つの回答となっています。
特に地霊とどう関係を作るかが
都市開発で重視されたのなら、
祟り対策の地鎮祭よりも
遥かに水準が高いですね。
是非とも笠置の認知度が上がる事で、
多方面の研究の流れが出てきて、
良い形での復興が成される事を願い、
研究・執筆を続けています。