東大寺の記録である『東大寺要録』には、
天平五年(733)に大仏殿様の東にある
若草山の麓に創建された金鐘寺が、
東大寺の起源とされているようです。
大仏鋳造が始まった天平十九年(747)頃から
東大寺の寺号が用いられたと考えられており、
笠置寺の正月堂の建立が752年とされています。
東大寺の大仏建立に登用された行基は
この行基は先住民族系の修験に通じ、
伊勢の神のついての書にも関与する
本来は体制側ではない人物です。
となると笠置寺にも行基が関与して
その痕跡が抹消されていないか
調べてみるとやはり見つかりました。
笠置から西に行った湧泉寺の伝承に、
東大寺に木津川で材木を運んでいると、
雨が少なく笠置あたりで材木が止まり、
行基に頼んで祈願をしてもらい、
満願の日に大雨が降ったとあります。
しかしこれで木津川が氾濫して、
川の中で働いていた人を呑み込み、
地蔵菩薩を供養すると夢幕に現れ、
泉橋寺のお地蔵様を造ったとされ、
同じ東大寺の木材調達に功があっても、
行基は半分罪人扱いされていますね。
やはり笠置寺には行基が関わり、
その痕跡が抹消された可能性は、
相応に高いものがありそうです。
となるとお水取りの起源ですら
行基となる可能性まで出てきますが、
信仰上敵対する側の存在であるので、
色々と隠されたのかも知れません。
笠置寺に行基が関わっていたなら、
ここでの修験道は行基に関わり、
壬申の乱以前の色合いの非常に濃い
鬼道に通じるものであったのなら、
花祭すら行われていたかも知れません。
全山焼失だからと言って好き勝手に
妄想を脹らませ過ぎとは思いますが、
徹底破壊が行われたのであれば、
やはり隠したい物があったのでしょう。
東大寺の奥山から柳生街道を北へ抜け
木津川に至った場所に笠置山があり、
東大寺の奥の院とも言えそうな場所なら
行基が関わっていても不思議はなく、
彼が隠されたのか理由を考えると、
後醍醐天皇に連なる物がありそうです。