奥山半僧坊は三遠にありますが、
鎌倉にも半僧坊が存在します。
鎌倉にある建長寺の半僧坊は、
霄貫道(おおぞらかんどう)和尚が、
坊主にも俗人にも見える白髪の老人に、
関東の清浄な処に招いてくれたら
良い事があるよと言われる夢を見て、
奥山半僧坊に出向き分身を願い、
建長寺に安置したと言う事です。
建長寺は鎌倉幕府第五代執権の
北条時頼により創建された禅宗寺院で、
承久の乱の後に建てられたとされます。
鎌倉幕府が先住民族王朝を復興したのが
南朝であるとするのが私の説なので、
両者に何らかのリンクが存在しないか
調べたくなる衝動にかられますね。
奥山半僧坊建立は1371年とされていますが、
南北朝対立の最中に後醍醐天皇の皇子が
中国で仏教修行し帰国後に造ったとするには、
随分と厳しい時代背景ではありそうです。
建長寺の創建が1253年とされており、
この頃に奥山半僧坊も建立され、
両者とも半僧坊を祀っていたなら、
南朝の痕跡が消され鎌倉での復帰が
明治になされた事になります。
情報が不足し過ぎていて微妙なので、
関連しそうな情報をご存知であれば、
教えて頂けると研究が捗ります。
猿田彦を表だって祀れなくなり、
半僧坊の伝承を創作した可能性は
非常に高そうな気配がありますが、
南朝では伊勢125社から外された
猿田彦が復権していたのでしょうか。