一八世紀終盤に備前岡山藩の和学者である
土肥経平が『春湊浪話』(安永四年跋)で
兼好南朝忠臣説を提唱しており、
『太平記』に記された高師直が兼好に
ラブレターの代筆を頼んだ艶書代筆事件を、
兼好が北朝を攪乱させるための深謀とします。
『徒然草』巻三には兼好が伊賀に行き
南朝に参る事を考えている部分があります。
吉野宮へうつらせ給ひしより間もなく、
都をさけて伊賀国に行て、
終にこゝにて身まかりしも、
南朝へ折々参りつかふる便よきを
思ひし心ゆえなるにや。
伊賀から吉野までは遠方ですが、
笠置寺からはそれほど遠くなく、
笠置寺で鎌倉幕府と戦ったのでなく、
南北朝対立の時期にも一定期間は
南朝の拠点であったかも知れませんね。
是にて思へば、兼好折々伊賀より都に登り
内間せし事有しなるべし。
されども其事をたくみにせし故、
其世に内間を更に察するものなくて、
一生恙なく観応元年二月十八日に
伊賀の国見山の麓、奈保村の庵に寂す。
今に至り四百三十年にも近かるべきに、
兼好の深き心を察する者なし。
遠き世の今案いと覚束なけれども、
大やうはたがはざらんか。
兼好が伊賀から京都に行ったのは
スパイ活動であったものの、
上手くやったのでバレなかったと
推理しているようですね。
この説は幕末から明治にかけて盛り上がり、
様々なところで引用されたようで、
国学者野之口(大国)隆正氏は
『兼好法師伝記考証』(天保七年刊)で
橘成忠娘との密通をスパイ活動とします。
そは、兼好法師、かねて南朝に心を通はし居たるにより、
後醍醐天皇この法師をひそかに用ひ給ふ事ありて、
中宮の小弁が親、成忠の許へひそかにすまはせおき、
小弁に病ありと披露して、父成忠のもとへ度々里居させ、
内勅を伝へたるを、人、密通とおもへるにぞありけん。
兼好は伊賀の女にうつつを抜かす
好色の僧侶とされてきましたが、
後醍醐天皇の密勅を兼好に伝えたのが
本当のところであったのではないかと、
中々にロマンのある説が展開されます。
彼は他にも面白い説を展開しますが、
都市伝説界隈で取り上げられそうな
ケレン味のあるものなので、
興味のある方は自身で調べてみて、
動画にしては如何でしょうか
これは天海僧正=明智光秀説や、
チンギスハン=源義経説のように
中々に面白い説ではあるので、
真偽は兎も角もっと有名になっても
良い話ではないかと思いますね。
こう言う所から歴史に関心を持つ人が
少しでも増えてくれると良いので、
とりあえず紹介してはみましたが、
学術的に云々と言うのであれば、
データと根拠を提示した上での、
両面検討するトレーニングが必要です。
簡単に妄想と切り捨ててしまい、
検討せず根拠を提示しないのも
学術的には未熟な話ですが、
根拠を出しても論破される事もあり、
権威ぶっていては大人気ないですね。
基礎を踏まえた大人の嗜みとして
議論をする姿はカッコいいので、
イキな大人になりたいものです。
アレクサンドリア大図書館も
ミューズの神殿の付属機関なので、
ギスギスした議論ではなく、
高貴な女神の息吹きが感じられる
知的活動があったのでしょう。
インスピレーションの語源も
この周辺に存在しているので、
知的活動に携わる人であれば、
プラトンの著作にでも目を通し、
ミューズとたわむれる魂の姿を
追及してみては如何でしょうか。