後醍醐天皇は出雲とも深い関係を持ち、
出雲の歴史にも深く関与しています。
元弘の変で足利氏に負けた後に
隠岐に配流された後醍醐天皇は、
密かに漁舟で出雲国へと脱出、
伯耆国の名和長年が天皇を助け、
天皇は船上山を行宮として挙兵し、
諸国に倒幕の綸旨を出したそうです。
後醍醐天皇は出雲大社に祈念を求め、
「皇道再興の御綸旨」を発したとされ、
天皇は直後に出雲大社の社宝である
神剣もらい受ける事を要求しています。
後醍醐天皇は国内を統治するも三年で瓦解、
出雲国造は南朝側にいた事により、
一子相伝であった出雲大社の祭祀職務も
出雲国造家が千家・北島の二氏に分かれ、
それぞれが出雲国造を名乗ります。
両家は後に共存関係となりますが、
神事を中止し軍勢を集め社殿に篭もり、
紛争状態に発展した事もあったそうです。
国譲り神話で天皇家の祖神に国を譲った
大国主を祀る出雲大社を拠点としたのは、
後醍醐天皇の特異性ゆえとされそうですが、
出雲国造の家系はアマテラスの御子である
アメノホヒとされています。
国譲り神話で地上につかわされるも
大国主にこびへつらい三年も帰らない
微妙な記述がなされるアメノホヒですが、
ここも掘り下げると謎がありそうですね。
マトモな記述のされていないホヒですが、
ホピ・インディアンに由来するとする説も
存在していない訳ではありません。
神話で悪く言われる神は調べてみると
大抵が先住民族の神をこき下ろしており、
情けないホヒも実際は凄い存在であった
可能性が無いとは言い切れませんね。
このブログで出雲と言えば三遠なので、
私の古代王朝復興説が正しいのであれば、
鎌倉幕府打倒に出雲で挙兵をしたのは、
後世の捏造であった事になります。
出雲が南朝側で後に二氏に分かれた事は、
後醍醐天皇が出雲の祭祀と深く関わって
これを復興させようとした時期があり、
これが伝承に影響を与えたのでしょうか。
三河南朝で出雲の祭祀が行われた可能性は、
それと思しき伝承が存在してはいるので、
ゼロではないと考えてはいます。
南朝が出雲との関係が深かったのであれば、
出雲を研究する事で南朝の信仰の姿も、
多少なりとも明確に出来るでしょう。
出雲から大量の銅鐸が出土していますが、
三遠も巨大銅鐸圏であったのは事実であり、
この周辺は三遠式銅鐸の本に書きましたが、
いずれ出版しようと思っています。