後醍醐天皇と出雲国造

出雲国造は古代祭祀を考える上で、
重要な痕跡を提供しています。

後醍醐天皇が出雲大社と関係が深いなら、
これらも基礎知識として知っておいた方が、
史料の少ない南朝の実相を追及する上で、
役立つ可能性は相応にはありそうですね。

六~八世紀頃の出雲地方は東西に分かれ、
西の出雲大社と東の熊野大社の二大勢力が
存在していたとされてはいるのですが、
時代的に見てやはり壬申の乱周辺なので、
私の研究を十分に読み込んだ人であれば、
もう言いたい事の概略は分かると思います。

平安末期~鎌倉時代の出雲大社の実権は
中原氏によって奪われていたとされ、
後醍醐天皇がこれを変革したので、
出雲大社が後醍醐天皇に仕えたと
見る事は可能ではありそうですが、
疑問も浮かび上がって来ます。

出雲国造は特殊な火の儀式を行い、
神人となるとされていました。

天皇は即位式である大嘗祭を行って
「天津日嗣(あまつひつぎ)」となり、
出雲国造も火嗣の儀式がなされたので、
天皇と同系の存在とされていました。

江戸後期の随筆集『譚海(たんかい)』に
この周辺が詳細に渡り記されているので、
具体的な内容を知る事ができるのは、
歴史を研究する上で非常に有難いですね。

出雲大社は詳しく語ると結構な分量となり、
一般的に認識されているものとは違い、
ある程度複雑な問題が絡まっており、
私の三遠=出雲説もブログの記事以外に、
詳細な研究も既に纏めてはあります。

関係者用の内部資料に纏めた事があり、
クラウドファウンディングで出版の費用を
捻出する事を試す事でもあれば、
部数限定でプレゼントも良いですが、
最近なにかと余裕が取れていません。

数ヶ月でネタが尽きるかと思いきや、
課題が次々に増えていくので、
未処理の課題が余りにも多過ぎて、
無料奉仕のボランティア状態でもあり、
撤退ラインの見極めが必要ですね。

出雲を掘り下げる事による南朝の探求は、
既存の南朝のイメージを塗り替える要素が
存在していると考えてはいますが、
ブログでどこまで書くかは未確定です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする