豊川市上佐脇の佐脇神社の
ご祭神は大山昨命とされており、
比叡山の守護神である日吉大社を
勧請したものとされています。
明確に記録に残されているものは、
天和二年(1682)岩瀬宗大夫重定著の
『三州吉田城廓之由来記』とされ、
三河十七騎ノ侍銘々在村之居住
岩瀬雅楽之助佐脇郷司改名
岩瀬吉十郎貞秀舎兄吉左衛門氏与
広忠公江勤仕旗本ニ成
天文四年(1535)基地十郎郷民ニ談事
氏神勧請坂本日吉三王宮ヲ写シ宮柱太舗立、
翌年九月九日祭日行也
と1535年勧請と記されてはいるものの、
岩瀬氏は今川義元の三河十七騎の一人で
社紋は今川家の五七の桐なので、
足利サイドの今川家が関与するのは、
いかにも南朝の痕跡の抹消の臭いが
プンプンしているところではあります。
豊川稲荷も今川義元が関与しますが、
ここは掘り下げるとかなり深いので、
後にじっくりと取り組みます。
山口氏と岩瀬氏がお宮のことで争い、
山口家は手持ちの古文書を悉く裏の藪に
埋めさせられたと伝えられるそうで、
足利サイドの強要に感じますね。
この神社に近くには望理神社が鎮座し、
色々とヤバい痕跡が残されており、
この周辺は『牛窪密談記』に記された
徐福王朝の痕跡の抹消された痕跡を
色々と見る事が出来そうです。
南朝がこれを復興したのであれば、
徐福王朝についての理解も深く、
南朝を通じて徐福の研究が可能です。
この研究はダキニ天の真の姿を
明瞭にする事に繋がるでしょう。