豊川市御津町下佐脇字御所には、
大宝二年(702)十月十日に
持統天皇が伊勢より船に乗り
御津の湊へ上陸した後に
三河行幸した行在所跡地があり、
近くの引馬神社には持統天皇が詠んだ
歌碑「万葉遺跡引馬野」があります。
佐脇神社はこれと絡められ、
南朝とは関係ない神社であると
されてきた経緯がありますが、
とりあえず三河行幸について
考えてみる事にしましょう。
672年の壬申の乱が終わった後、
古事記の編纂が710年とされており、
天武天皇が晩年の681年に
『帝紀(ていき)』『上古諸事』を
川島皇子や忍壁皇子に編纂を命じ、
歴史書の編纂を行わせたとされます。
崩御の三ヶ月前に謎の三河行幸をした
持統天皇の行動の背後を探ると、
この地に存在した先住民族の痕跡を
抹消する目的があったように見えますね。
行幸の跡地には神社が建てられており、
先住民族の聖地であったこの地を
南朝が復興したと仮定すると、
佐脇神社は徐福王朝と持統天皇、
南朝の三者と関係する事になります。
時系列上では一番最後が南朝で、
南朝がここに御所を構えた後に
歴史的に抹殺されたとすれば、
この地に御所を置くクラスの
王都あった可能性が高そうです。
上佐脇には羽田野家一門の氏神である
天白社が鎮座していたそうですが、
羽田と言えば徐福由来の秦氏で、
徐福王朝の王都を偲ばせます。
佐脇神社には上佐脇と下佐脇に
二社存在していますが、
下佐脇の佐脇神社は明治以降に
熊野前権現社からの改名とされ、
上佐脇の神社の近くには
望理神社が鎮座していますね。
三回ほど行った事がありますが、
小さいながらも独特の雰囲気のある
何かを感じさせる場所でした。