草壁との戦い

江戸時代の地理書『三河国二葉松』には、
古代の豊川市赤坂町(赤坂嶽ヶ城)に
草壁皇子の皇居があったとします。

草壁皇子は天武天皇の子供であり、
壬申の乱のときに遠州鹿沼に行き、
そこから信州へ行って、
また三河の宮路山に御所を構え、
軍勢を整えたと書かれています。

壬申の乱時に十歳であったとされる皇子は
三河国一宮砥鹿神社の宮司の草鹿砥氏と
誤解されたとする見方もありますが、
私の研究からすると若干違う仮説が
提示可能ではないかと思っています。

天武天皇が壬申の乱の勝利者とされますが、
後に天智天皇サイドに皇統が占められており、
実際の勝利者は天智サイドであったのなら、
持統天皇は天武天皇の妃ではなく、
天智サイドの人間であった事になります。

古事記・日本書紀の編纂に関与し、
崩御の三ヶ月前に謎の三河行幸をした
持統天皇の跡地は神社となっており、
本当に行幸だったのかは疑問があります。

東三河は壬申の乱の戦地とされてはおらず、
実際は持統天皇による軍事侵略こそが、
三河行幸の本質だったのではないでしょうか。

砥鹿神社里宮のエリアには日下部氏がおり、
日下部氏と宮路山での戦いを表だっては言えず、
草壁皇子の戦いにカムフラージュしたなら、
この周辺の歴史に一本筋が通りますね。

この戦いで山奥に隠れた民が継承したのが
花巻であったとする研究は散々書いており、
鬼神を祀る徐福王朝は歴史から抹殺され、
南朝が復興したのに足利に滅ぼされ、
記憶喪失状態の国民性となったのでしょう。

宮路山は私も上った事がありますが、
山頂の神社で何とも言えない感覚を
味わった覚えがあります。

日下部と書いてクサカベと読むのは
昔から疑問が提示されて来ましたが、
日下なら太陽神を信仰する部の民が
この地に存在していたのでしょう。

後醍醐天皇に饒速日命の影が見えますが、
この神を祀る部族が十種神宝をもって
皇位を継承する神聖王権が存在し、
神道界に御神事として継承される事で、
その加護を与え続けているのでしょうか。

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