南朝と多賀

三河南朝の研究では後村上天皇と
多賀の地が関係付けられていますが、
興味深い事に東北においても、
後村上天皇と多賀が関係しています。

多賀城は中央政府が蝦夷を支配するために
軍事拠点として設置した国府(役所)で、
神亀元年(724)に建てられたとされます。

11世紀半ば廃絶したとされますが、
南北朝時代にそこから南西の岩切に
北畠顕家が後醍醐天皇の皇子を報じて
下向して南朝の拠点としたとされ、
この皇子が後村上天皇とされます。

多賀城神社には後村上天皇を始め、
北畠親房、北畠顕家、伊達行朝、
結城宗広ら南朝の忠臣が祀られ、
北畠親房の東北経営に関わりますが、
三河南朝に親房がいたとすれば、
この周辺は微妙な話になります。

かつてこの付近に多賀神社が存在し、
多賀城と共に衰退したそうですが、
三河南朝でも後村上天皇は
多賀と関係付けられています。

後村上天皇と多賀との関係が
当時広まっていた可能性があり、
三河南朝の根拠が強くなるに従い、
この仮説の妥当性も上がりますね。

東北で『神皇正統記』を書いた
北畠親房が三河にいたなら、
南朝の歴史を記す数少ない書の
信憑性は地に落ちる事になります。

後村上天皇が多賀と絡められた事実が
既に広まり抹消出来なかったので、
無理やり東北の多賀を持ち出したなら、
少し探れば粗が出ては来そうです。

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