国会図書館本『保歴間記』の
建武四年(1336)春の記述に
「顕家卿打負テ多賀ノ国府ヲ落」
と記されている内容の解釈が
古代に国府の置かれた宮城県の
多賀城とされてきました。
発掘調査により多賀城は十世紀半ばに
役割を終えた事が確認されたそうです。
ここから「多賀ノ国府」の位置について
複数の仮説が提唱されてきましたが、
三遠吉野朝にも多賀が存在しています。
となると三河の多賀も検討すべき
一つのオプションとして上げるべきで、
様々な仮説のデータと根拠を洗い出し、
それぞれの度合いを明確化する作業に
加える必要が出てくるでしょう。
雄略天皇の初瀬朝倉宮に関しても、
複数の候補地が提示されていますが、
飽海神戸神明社の地下に眠っている
朝倉川の河口にある飽海遺跡の存在が、
オプションに入っていませんね。
三河にも国府の地名が残されていますが、
この周辺は三河吉野朝での重要拠点で、
私も様々な記事を書いてきていますが、
問題なのは聖地としての運営であり、
垂れ流して粗末に扱われるのは
避けるべき行為だと感じています。
伊勢参拝が現代にまで継承されるのは、
伊勢神道に精通した外宮の御師が
これを広めたのが大きな理由で、
認識の浅い薄っぺらな観光として
聖地を扱えば継続は難しいでしょう。
業者のみならず神主や氏子においてすら、
神社が凄いと虎の威を借る狐になり、
横柄な事をして責任は押し付ける人を
時々目にする事はあるのですが、
いかにも小者のする事ではあります。
私が敢えて色々と書いているのも
基礎部分の構築が必要だからですね。
精通した上でどう関わるかを
決めるのでないと失礼にあたり、
無責任な行為で金を得ようとするのは、
先祖にも子孫にも恥じとなるでしょう。