茨城県の多賀と南朝伝承

怪しげな歴史を伝える古歴古伝で
一大ブームを巻き起こした竹内文書は、
竹内巨麿呂が天津教を創設して
色々な騒ぎを引き起こしましたね。

後醍醐天皇や長慶天皇の御遺品、
古記録を入れた瓶、モーゼの十戒石、
神代文学等の資料を保持していたのは、
茨城県多賀郡磯原町においてです。

竹内文書が茨城県の多賀と絡む以外に、
東北の多賀城も南朝と関係しています。

南朝が多賀とリンクする理由については、
三河吉野朝の多賀がど真ん中にありし、
ここから波及していった可能性が
高いのではないかと思っています。

茨城の竹内文書は三河に存在した
竹内文書から変質したものであり、
南朝の歴史観は『神皇正統記』の
日本書紀に類似した歴史観ではなく、
人類の創世にまで遡った壮大な神話が
王朝の根拠とされていたのでしょうか。

エジプト神話にある太陽の船と
饒速日命が乗った天磐船は、
何らかの関係がありそうです。

アレクサンダー大王は各地に作った
大図書館をネットワークで結び、
各地の歴史や神話を研究させたなら、
現代からは想像もつかない歴史を
認知していたのかも知れません。

後醍醐天皇もこれに類似した
古代の歴史の復興を行った痕跡が
見受けられない訳ではありません。

アレクサンドリアや秦でも
大規模な焚書が行われましたが、
南朝の文献も焚書の憂き目にあい、
大幅な知の欠落が起こっています。

現代ももう一度知の復興運動を
取り戻す必要がありそうです。

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