東三河の西の端に聳える砥神山は
昔から三河富士と呼ばれる様に、
遠方から見ると独特の威容を放ち、
富士山同様に御神体山であった事を
十分に感じさえてくれます。
橘諸兄卿が十匹の鹿が駆け登るので
山の名を訪ねると無名だった事から
十鹿見山と呼ぶようになったとする
伝説が存在するとされてはいますが、
これ以外にも諸説あるようです。
砥神神社の社伝における由来では、
橘諸兄卿が砥神山で光る物の出現を見て、
夢中で白髪の老人に己を祀るよう言われ、
神名を訪ねると登加美であると告げられ、
トカミの神を祀ったとされています。
橘諸兄と言えば行基の時代に
政界の有力者であったとされ、
東三河の伝承に登場する背景に
隠された領域がありそうです。
砥神山の南西側に砥神神社があり、
東北側に相楽神社がありますが、
鬼門・裏鬼門に神社があると、
邪推したくなるのは職業病ですね。
この相楽神社は以前には
兎上(とかみ)神社と呼ばれ、
熊野神社と八幡社が合祀されて
今の社名になったとされます。
砥鹿神社から三河一宮である
砥鹿神社を連想してしまいますが、
両者は縁起も類似しています。
砥鹿神社の奥宮は本宮山にあり、
文武天皇の病気を治すために
仙人に頼みに行く話がありますが、
この仙人が役小角である事は
既に本に書いておきました。
本宮山の麓には徐福の連れてきた
秦氏が多いと『牛窪密談記』にあり、
砥鹿神社の地にいた日下部氏と
草壁皇子の関係も本に書きましたが、
何かと先住民族と関係しますね。
砥神神社の砥神は兎上、兎頭、戸神、
十鹿見、遠鹿見とも記されるので、
漢字は当て字と言う事になりそうです。
昔は砥神神社と多賀神社があり、
江戸時代に両社が合併した後に
多賀神社の名が消えたそうです。
砥鹿神社の社名の由来には、
多賀が砥鹿となった説もあり、
イザナギを祀る多賀大社は
琵琶湖の東に鎮座していますが、
三河にも多賀が存在したなら、
どの程度の格だったのでしょう。
南朝を調べると多賀との絡みが
随所に見受けられるのですが、
その根に三河の多賀があるなら、
大幅な再解釈が必要となるでしょう。