豊川稲荷創建の時期

文永四年(1267)に寒巌義尹が宋から帰国する時、
船の上にダキニ天が現れ加護により無事帰国し、
豊川稲荷でダキニ天を祀り始めたとされます。

一般的に稲荷とダキニを関連付けるところは
この豊川稲荷の伝承による部分しかなく、
急に何処からともなく現れたダキニ天を
祀り始めたとするのも脈絡が感じられません。

1267年と言えば南朝よりも前の段階で、
後醍醐天皇と関係がありそうな雰囲気ですが、
豊川稲荷は豊川の畔の円福ヶ丘にあったのを、
元禄(1688~1703年)に移転してきたとされ、
南朝とは全く関係ないものに見えます。

しかし円福ケ丘の場所や移転の理由は不明で、
他にも様々な謎が存在するのがこの稲荷です。

私は後醍醐天皇が修したダキニの法は
一般的に言われる真言立川流の邪法でなく、
豊川稲荷で行われたダキニの法であり、
これが後に隠されたものだと考えていますが、
この仮説の根拠を述べていく必要があります。

ここを開示する事で世界的な聖地として
復興できるものと考えていますが、
豊川稲荷は御神体山などとは違い、
運営・管理において心配事が少なく、
地域振興の価値が高いのが良いですね。

運営が杜撰なところは体よく人を利用して
金になる所を持っていき責任を押し付ける
聖地とかけ離れた事をする所もありますが、
豊川稲荷のダキニ天は怖い天部ともされ、
お仕置きが期待出来るのは良い事です。

社会的な問題があるのは確かですが、
責任を棚上げして人にどうこう言い
美味しい所沢だけ持っていくのは、
プライドを保持して楽をする程度なので、
誰かがやってくれるだろうでは進みません。

地元の価値を認識し誇りを持つ事が
地域振興の基本となるので、
いくら稲荷が狐を祀るからと言って、
虎の威を借る狐では頂けませんね。

何故か三遠では聖地に関係する所で
トラブルを聞く事が多いのですが、
こう言う話がなければもっと色々と
出せる研究はあるんですけれどね。

豊川稲荷の狐の像は怖いものが多く、
狐だからと小狡い事とは関係なく、
礼儀に関しては厳しそうです。

以前、四谷の豊川稲荷別院に行った時、
ダキニ天に危ないイメージがあったので
スルーして用事だけ済ませようとしたら、
強面の狐の像に挨拶だけでもしておけと
睨まれた感じがしたので参拝しました。

実際に参拝したらダキニのイメージが
随分と違って驚いた事がありますが、
礼儀を欠いて行く場所ではないですね。

弱いイメージの狐もジャッカル説があり、
実際にはかなり強い可能性もありますが、
死後の魂の査定に関わる存在でもあり、
関わるなら姿勢を正した方が良さそうです。

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