四方浄の熊野三山

浜松市北区引佐町四方浄には
多くの行基伝説や資料が残され、
村に存在していた縁起書が、
『仮題四方浄行基の事』の名で
資料として書き残されたそうです。

四方浄の名の由来には、

行基は自ら仏像を刻み四方に安置し、
東は、川名村に薬師如来、
西方、的場に阿弥陀如来、
南の伊平には、観世音菩薩、
北方、別所には釈迦如来を建立し
中田里を改め四方浄村とした。

と伝えられているようですが、
仏像で結界を作り守護した地が
四方浄と言う事のようですね。

四体の仏像の内訳を見ると、
釈迦を除外した三体の如来は、
熊野三山に対応しています。

熊野三山成立前の後三条天皇の時代に、
スズキ本社裏の熊野神社が建てられたと
伝承されているようなのですが、
土を盛って作ったとされているので、
古墳に建てた可能性もありますね。

古墳といえば土師氏ですが、
行基と密接に関係した可能性を
チラホラと見る事が出来ます。

熊野三山成立の背景を見ると、
本来の熊野信仰より後の段階で
様々な如来が関連付けられており、
徐福の熊野とは系統の違う仏も
関連付けられる事になっています。

と言う事で四方浄の行基伝承は、
後の時代に捏造された可能性があり、
鵜呑みには出来ないと思っています。

しかし全否定が出来るかと言えば、
この地に纏わる行基の真実の歴史を
隠蔽する目的で様々な工作が行われ、
これが古代出雲にまで通じていると
実地調査を元に考えています。

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