石野修氏は『遠州渋川の歴史』で、
引佐町四方浄に熊野三社があり、
四方仏の拠点があったとしています。
熊野と言えば徐福なのはもう良いですね。
熊野についても色々と書いて来ましたが、
古代には饒速日に連なってもいます。
となると四方浄の四仏が造られたのは、
行基の時代より後の可能性も出てきて、
四方浄の行基伝承の書き換えとも
リンクしてくる気配がしてきます。
四方浄の四仏の中で特に重要なのが
東の薬師如来像ではあるのですが、
薬師寺堂で良い鬼の登場する祭である
ひよんどり(火躍り)が行われます。
徐福が薬師如来像を持ち帰ったとされ、
アショーカ王の仏教と関係している事は
『三遠式銅鐸と古代出雲』に書きました。
阿弥陀如来の成立は後の話であり、
信じれば救われる信仰は大乗からで、
自分の事しか考えないと批判された
小乗仏教はアショーカ王の仏教です。
両者が共に祀られるのであれば、
徐福に根拠を置く信仰ではなく、
百済系の仏教の影響なのでしょう。
笠置寺の記事で東大寺の木材を
行基が調達した話が隠蔽され
悪者とされた話を書きましたが、
ここに止まらず大規模な隠蔽が
なされた可能性は高そうです。