国分寺と天武天皇

672年の壬申の乱で勝利した
天武天皇は仏教を篤く信じ、
四年後の676年には、
諸国に金光明経や仁王経を
説法させたと伝えられます。

685年には大和法起寺に三重塔を建て、
全国の家ごとに仏壇を作って
仏像を拝むように命じたとされ、
伊勢の神宮を二十年毎に建て替える
式年遷宮も決定したとされています。

奈良の東大寺を頂点として、
全国に国分寺が建立されますが、
国分寺には金光明経が置かれ、
天武天皇伝承とリンクします。

実際には天武天皇ではなく、
その后とされる持統天皇こそ
天智天皇の流れを汲んでおり、
結局は天智系が天皇となって
天武系は短命とされています。

壬申の乱を侵略戦争とするのが
私の説ではありますが、
当時の唐は武即天が支配し、
三つの一神教を保護した事は
既に記事にしていますね。

武即天は弥勒の生まれ変わりを
自称していたとされますが、
全国に大雲寺を配置しており、
天武天皇が為したとされる行為は
大雲寺建立に通じていそうです。

ここでの弥勒は一神教系のミロクで、
ゾロアスター教のミトラですね。
かのアレクサンダー大王が
ミトラの生まれ変わりを自称した
多神教系のミトラとは違います。

天武天皇の王朝は新羅と繋がりがあり、
山岳修行を行う花野(ファラン)にも
弥勒信仰が存在していましたが、
笠置寺の焼けた磨崖仏の弥勒像も
多神教系のミトラなのでしょう。

『平将門の深層』にも書きましたが、
こもミトラはヒッタイトの時代にすら
信仰されていた神でもあるので、
人類史の解明にも外せない存在です。

終末預言にキリストの再臨があると
騒がれた記憶はありますが、
これも一神教系のミトラに通じ、
現代にまで多大な影響を及ぼす
問題の根はかなり深いようです。

問題は行基がこれとどう関わったかで、
信仰の系統が違う寺院の建立に、
融和的な関与がなされたのかには、
かなりの疑問が出てくる事になります。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする