葛城王が『続日本紀』に最初に登場する
和銅三年(710)の正月の記述では、
彼が五位の地位と記されています。
臣籍降下をした元皇族であったので、
始めから高い地位であったと言われ、
天皇家との関係が指摘されています。
710年は平城京遷都の年であり、
葛城王が27歲の時の話ですが、
壬申の乱が672年の話なので、
乱が終わって暫くして生まれ、
権力に関わっていた事になります。
葛城王から橘諸兄に改名し、
政治に関わる事になったなら、
先住民族の高貴な血統が
壬申の乱敗戦により取り込まれ、
朝廷に仕えていた家の生まれで、
天武天皇サイドになりそうです。
葛城と言えば役小角が一言主神を
呪縛したと伝えられる地ですが、
雄略天皇の伝承ともリンクするので、
古代王権の重要な地とする認識が
存在していたのでしょう。
雄略天皇と一言主神については
『平将門の深層』に書きましたが、
ヤマトタケルの古代王権に関わり、
葛城王の名は想像以上に重要そうです。
行基は一言主神の秘説を説いており、
孔雀明王と同一神としていますが、
役小角は孔雀明王経を唱えて仙人になり、
アショーカ王は孔雀王朝を拓いています。
葛城から南下した吉野は修験のメッカで、
南朝の拠点ともされた地でもありますが、
このルーツが三遠にある事は書きましたね。
この葛城王=橘諸兄が行基と関係したなら、
歴史に記されない領域が存在していた事は、
用意に想像が出来る事でしょう。
コメント
素晴らしい考察をありがとうございます。真実は僕の様に無学で教養も無い者にも腹に落ちるというか心底納得するのかなと思いました。筆者様は音楽にも精通されているようで、僕も音楽をそして大峰山修験道の道場にも通ってますし遠州のお囃子を障がい者施設でリズム組曲にして発表したりしてました。浜松の都田に半年程通ってました。今は熊本市内に居ます。メルマガはこちらの設定ミスで届かないのですが無料で読んでは申し訳ない程のblog記事を楽しませていただいてます。お体ご自愛くださりこれからもロマンと探求を楽しませて下さい。ありがとうございます。
三嶋さん初めまして。
私の提供しているものは一研究ですので真実として扱わず、各自で検討して判断して下さい。
研究・執筆は想像以上に負担がありますが、時代的な意義があり無料で大量に情報を流しています。
行政や企業が動けば良いのですが、認知度が高い状態まで持っていかないと進まない問題があるので、読者各位の情報拡散による部分が大きいです。
一人が二人に伝えてその人達がそれぞれ二人に伝えれば、一か月もしない内に日本の人口を追い越す計算になるので、小さいと思ってもやるのとやらないのとでは大きな差になりますね。