「東大寺」は正式名称と思われていますが、
「金光明四天王護国之寺」が正式とされます。
聖武天皇と光明皇后の間に生まれたものの、
一年経たずして他界した基(もとい)親王の
菩提を弔うため若草山に建てたとされるのが
東大寺の前身の金鍾山(きんしょうさん)寺で、
後に東大寺初代別当となる良弁も住んだそうです。
741年、全国に国分寺建立の詔が発せられると、
東大寺が国分寺の頂点に位置する事になり、
金鍾山寺は大和国の国分寺となって、
大和金光明寺という名称になりました。
東大寺は平城京の東のあるものの、
一度は遷都して捨てられた宮に、
もう一度戻った事になります。
東大寺と呼ばれ始めたとされる時期は
大仏が造られ始めた頃とされており、
当初からのもので無かったようですが、
当初は更に東に大仏建立を計画したのに、
平城京の東で東の大寺としたのでしょうか。
東大寺に対する西大寺が存在しますが、
天平宝字八年(764)に孝謙上皇が
恵美押勝の乱の平定を祈願して
金銅四天王像の造立を発願したとされ、
東大寺と対で計画されたものでは
無かったようではありますね。
舒明天皇十一年(639)から
造営の始まった百済大寺が
最初の官寺(大寺)とされますが、
百済が西なので東の大寺として
対比された表現なのでしょうか。
四天王護国之寺なのに大仏がメインで、
何かと謎が存在するのが東大寺ですが、
盧舎那仏をメインにするのであれば、
名称すらかすらないのは何故でしょう。
四天王寺といえば聖徳太子で、
百済系仏教や景教に関わりますね。
聖徳太子は馬小屋で生まれる等、
キリストをモチーフにした伝承が
残されてはいるのですが、
武即天の保護した景教の影響を
伺う事が出来るでしょう。
試みの大仏殿の仏像は阿弥陀如来で、
ミトラやキリストに由来する仏なら、
東大寺もキリストの仏像を建立する
寺院として企画されたのでしょうか。