正倉院文書にある優婆塞貢進文の中にある
続々修二八の五『大日本古文書』二四巻三〇二に、
丹比連大歳 大養徳国城下郡鏡作郷戸主立野首斐太麻呂戸口
読経 法華経一部並破文
最勝王経一部
千手千眼経
薬師経
誦経 八名普密経
多心経
観世音経
師主薬師之寺師位僧行基
浄行五年
と行基について記された箇所が存在します。
優婆塞貢進文は政府公認の得度の出願時に
提出する申請文書とされていますが、
師主が行基とされるので弟子の話ですね
この書を井上薫氏は天平十二年(740)から
十七年(745)にかけて成立したのではと
『日本仏教思想の展開』「行基と鑑真」で
記述されているようですが、
行基が政府から公認された後ですね。
政府公認の得度(官度)を目指して
読誦した経典として記された中の
基礎的な経典以外に問題があり、
弟子が学んだ経典は雑密系の経典です。
この中に壬申の乱以前に成立した
雑密経典が複数存在しています。
八名普密経は玄奘訳『八名普密陀羅尼経』(654年訳)、
千手千眼経は伽梵達寧訳の『千手千眼陀羅尼経』(650年訳)、
薬師経の漢訳が玄奘訳『薬師如来本願経』(650年訳)なら、
雑密の呪術的な経典と見られるそうです。
遣唐使は672年の壬申の乱の前に
669年まで数年おきに継続されており、
壬申の乱が終わった後の遣唐使は
702年とされてはいるのですが、
唐の記述では倭から日本に変化し、
使者が傲慢で信頼ならないとします。
行基が壬申の乱以前に持ち込まれた
雑密経典を弟子に学ばせていたなら、
新羅に通じる役小角の修験に通じ、
高句麗・百済の仏教を学んだ伝承は
信憑性が薄いものとなりそうです。