橘勢力の粛清と武則天

752年の東大寺大仏開眼会の後、
光明皇太后・藤原仲麻呂が権力を振るい、
755年にはあらぬ悪口を立てられて
橘諸兄が辞職する事になります。

諸兄の息子・橘奈良麻呂により、
クーデターが計画されたのに、
密告により447名が殺害され、
この粛清により藤原氏が
再び権勢を握ったとされます。

大仏造営の功績から登用された
藤原仲麻呂は光明皇后の後ろ楯で
権力を振るい好き勝手をします。

橘奈良麻呂は大仏建立による
財政的疲弊に抗議をしたところ、
諸兄の代から始められたと
言い返されたとされますね。

奈良麻呂の乱も藤原氏による
捏造の可能性もありますが、
藤原仲麻呂により玄昉も左遷され、
やりたい放題をしていますね。

彼は武即天に関心を持っていたとされ、
裏工作や反対勢力の粛清などは、
彼女から学んだ事とされています。

国分寺も武即天が作った大雲寺を
モデルとした可能性が高いので、
奈良麻呂の主張は捏造の可能性が
高いのではと思われます。

天然痘で藤原四兄弟が死んだのに、
大仏建立でその場しのぎをしたら
また好き勝手を始めた感じですが、
東大寺の大仏は仏教呪術による
天然痘解消が目的だったのでしょうか。

天然痘は業に対する仏罰とされ、
これを防ぐ目的で大仏を建立したなら、
そもそも行基が大仏を建立したかは
不明瞭な部分が出てきますね。

行基は東大寺とは関係しますが、
大仏建立の民への負担は多く、
根本的に協力しかねる目的のために
大仏を造営しようとしたなら、
どこまで関与したかは不明瞭です。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする