則天武后に仕えた法蔵は、
タシケントやチムケント周辺の
康居(こうきょ)国から、
祖父が唐に帰化したとされますが、
サマルカンド生まれの
ソグド人ともされています。
法蔵は華厳教学の大成者とされ、
雲華寺で智儼(ちごん)に学んで
九年も『華厳経』の講義を聞き、
咸亨一年(670)に武則天が
実母の霊の供養するため勅命を下し、
法蔵を抜擢したとされています。
武即天は華厳経にも詳しく、
法蔵との関係が深かった事を
伺う事が出来ますね。
法蔵は顕慶三年(658)に
阿育王舎利塔前で一指を焼いて供養し、
翌年、法を求めて太白山に入るも、
親が病気になり帰国したとされます。
阿育(アショーカ)王や太白山は
邪馬台国に連なる信仰ですが、
この段階の新羅と唐、百済の関係は、
まだ戦争に突入する前の時期ですね。
華厳経に記された盧舎那仏に由来して
東大寺の大仏が建立されていますが、
法蔵や武訴求力天は関係したのでしょうか。
東大寺が国分寺の頂点とされ、
国分寺が武則天が全国に作った
大曇寺に由来するのであれば、
東大寺で華厳経が重視されたのも、
これに倣っての事なのでしょうか。