八幡神について本に書くので、
八幡神社に参拝に行きましたが、
鳥居の前か蝶がヒラヒラと飛び、
参道を案内してくれるように
社の前まで着いて来ました。
偶然かも知れませんが、
こう言う情景を見るのは、
風情があって良いですね。
まだ暖かいので蝶を見かけますが、
二匹で追いかけっこをする姿は
見ているだけで心が和むものの、
ストーキングから逃げていたら、
解釈が違い過ぎて笑えます。
同じ物を見ても解釈が違うのは
面白い現象ではありますが、
自分の理解を越えた物の解釈は、
心理学的には本人の人格が
反映すると言われていますね。
芸道の歴史的達人が隣にいても
関係なければタダのおじさんで、
何気ない動作一つにしても、
修行しただけ凄さが分かるのは
良く聞く話ではあります。
レベルが違い過ぎる物を見た時に
凄いと言う人は本人自身が凄く、
酷く言う人は本人が酷いケースは、
結構見かける事があります。
大自然を見た時にどう感じるかも
本人の内面が反映している事は、
結構ありそうな気がしています。
古代では自然界に神を見ますが、
それは当人が磨かれていたからで、
農耕においても通じていそうです。
大地や自然の働きを見た時も
何を見ているかは人により違い、
本人の内面が投影されているなら
価値ある働きが見られない時は、
曇った鏡で見ているのでしょう。
伊勢外宮の神も農耕に関わり、
神鏡を御神体としているなら、
古代の農耕は魂を磨く事と
セットであったのでしょうか。
ギリシャ神話での岩戸開きが
農耕と関わっている事も、
オシリス・イシスと農耕が
密接に関わっている事も、
農=御神事であった可能性を
示唆していそうですね。
岩戸開きの後に大地が実り、
光を取り戻していますが、
これが生まれ清まりと
言われる事と関係します。
この光は魂の輝きであり、
自らを磨く事によって
様々な豊穣が得られる事を
伝えていそうな話ですね。